プロのピアニスト
ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。
概要
70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。
その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。
これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の中におられたからこそ身についたことだと思いますが、私の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。
特徴
日本人は、考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっている感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの私から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。
そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。
少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?
いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。
そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。
そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?
音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。
これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。
まとめ
聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。
プロにとって考え方も違うと思いますが私もそう思います。